ナチス親衛隊の制服

ブラックコメディが効いてる!『ミケランジェロの暗号』から見るナチス親衛隊と制服

ヴィクトルはルディに洋服を交換しよう!と持ちかけ、SSの制服に身を包みまんまと騙していきますが、SSナチス親衛隊の制服はミリタリーファンからはとても人気の高い制服でもあります。デザインがスマートということが人気の理由です。でも本物は残っているかといえば、ナチスが連合軍に負けて多くのSSナチス親衛隊員たちは、戦犯追及することを恐れたために、連合国へ降伏するときには、SS親衛隊の制服を捨てて、国防軍の制服に着替えていたために、現在SS親衛隊の制服が現存している本物は大変少なくなっています。ほとんどが戦後にドイツ以外で復刻したレプリカです。ヒトラーという魔モノも生み出してしまったドイツでは、ナチ賛美に繋がる物品の販売はもちろんのこと、製造も厳しく規制しています。

トーテンコップと制服

トーテンコップ:髑髏(どくろ)は最初の時期からSS親衛隊の徽章です。そしてSSといえばトーテンコップと言われるほどでもありますが、ドイツでのトーテンコップつまり髑髏のマークは、ドイツ前のプロイセン王国の第1近衛軽騎兵連隊と、第2近衛軽騎兵連が「死を恐れぬ軍人」という意味でトーテンコップを採用した事に始まります。

プロイセン王国時代から採用されたトーテンコップの徽章は、プロイセン王国からドイツになっても髑髏のマークは「エリート部隊」という意味合いを持つようになりました。最初のSS親衛隊では下顎がない伝統的な髑髏(トオーテンコップ)を使っていましたが、1934年にドイツ陸軍が戦車兵の制服の襟章に、親衛隊の物と同じプロイセン時代からのトーテンコップを使うようになったことから、ドイツ陸軍の戦車兵とSS親衛隊のマークが混同しないように、SS親衛隊の髑髏の形に変更が加えられました。SS親衛隊の髑髏には、下顎がつけられてプロイセン王国じだいのトーテンコップよりも、よりリアルな髑髏になりました。そのためこの形は、プロイセン王国時代から続いている伝統的なものではなくSS親衛隊独自のトーテンコップになりました。

ナチス親衛隊、つまりSSの制服といえば有名な黒いスーツですが黒いスーツがSSの制服として採用されたのは1932年のことです。そして1938年には、黒服と同型の形で濃いグレー(フィールドグレー)色の制服が導入されています。そして、SSの中でも特務部隊(武装SS)では、陸軍型の野戦服が使用されました。武装SSの戦車・装甲車の搭乗員も、陸軍の戦車兵とほぼ同型の黒い制服を着用していました。SSで使用された制帽は、すべてトーテンコップが帽章として使用されていました。

黒服前の初期の頃の制服

ナチスの最初の準軍事組織にあたるSAの時には、色は褐色で統一されていてシャツのような上着とネクタイ姿です。そして党員の場合にはネクタイに党員章となっています。そしてケピ帽とズボンを制服として着用しています。このスタイルは、サウンド・オブ・ミュージックでこの服装に身を包むSA隊員たちから、身を隠すトラック大佐ファミリーでみることができます。

黒服が制定されてからは、黒服前のこの褐色シャツの制服は「伝統の制服」と呼ばれるようになったため、ナチ党の式典などで着用されるようになりました。黒服が制定されてからは、基本的にSAの制服が褐色シャツということもあって、式典で黒服制服が制定される前の「伝統の制服」を式典で着用したがるのは野党時代の闘争を懐かしむ古参SS隊員だけだったといいます。SS親衛隊の全国指導者ハインリヒ・ヒムラーも「伝統の制服」を好まなかったため、ハインリヒ・ヒムラーは式典の際には黒服で出席していました。

伝統の制服

ナチス親衛隊のSSが結成されたのは1925年4月ですが、1932年まではSAと同じ型で色だけが違う制服を使用していました。シャツ型上着はSAと同じで褐色でしたが、ケピ帽の色が黒くなっていてネクタイも黒、ズボンも黒い物を使っていました。SAと差別化するために、ハーケンクロイツの腕章に上下に黒のストライプを入れていました。色以外でSSとSAの制服が違っていたのは、ケピ帽にトーテンコップの徽章を入れていることになっています。

1926年11月に、SAが制服に階級と所属部隊を明らかにするための襟章を導入しました。SSもSAの導入にならって1929年8月に襟章を導入しています。SAは所属する部隊を示す方法として、襟章にいろいろな色を設けていましたが、SSの襟章はすべて銀と黒で統一されていました。

SSでは、所属部隊は左腕の袖のところのカフタイトルで示しています。そしてSAと同じく、襟周りや襟章の縁にパイピングを入れました。この襟周りや襟章の縁のパイピングは、黒服以降の制服にも受け継がれましたが、1940年には廃止されています。でも、襟周りのパイピングは廃止された後にも使用されることも多かったといいます。

黒い制服登場

1932年7月7日にSSの制服が大きく改訂されました。そしてSSの制服として有名な黒い勤務服が定められました。デザインしたのはグラフィックデザイナーのSS上級大佐だといわれていますが、実際には違うのではないか。とも言われています。ドイツにとって「黒」は神聖ローマ帝国であったりプロイセン王国の旗の一部を構成する色ということもあって、ドイツにとって象徴的な色ともいえるものでその黒を使うことで高貴な部隊ということを意味しています。

制服の詳細

黒いネクタイをつけた褐色のシャツの上に、黒い上下のスーツを着用します。スーツの前ボタンは4つ付いていて、開襟して着用します。ふた付きのポケットが2つずつの2ヶ所、胸と腰についていて計4つのポケットになっていて、腰ポケット2つは斜めになっています。肩章は右肩にだけ装着します。背中の部分には、腰の部分にベルトフックとベルト止めの役割がありボタンも2つ付いています。ボタンから裾までは、ひれにも見えるプリーツが入っています。

黒スーツの下に着るシャツは、基本的に褐色のシャツになっていますが黒スーツを礼服として着用する場合に、白いシャツを着用することも許可されていました。1938年頃からは、日常勤務服としても白いシャツが併用されるようになっています。

以前のSSではケピ帽が制帽でした、黒のスーツに制定されてから軍の制帽に似た帽子に変更されています。ただ黒服初期の制帽は、第一次世界大戦のドイツ軍や戦後のヴァイマル共和国軍で使われていた軍帽の流れを組んでいるため、潰れているような感じにみえるあまりトップが高くない帽子です。

制服の製造

下士官や兵士に支給する黒服は、ナチ党の「国家装備統制局」と契約を交わした民間企業の工場で製造されていました。その一方で将校になると、規格品をSS被服販売所で購入するか、もしくはオーダーメイドで黒服を仕立ててもらうかというケースがほとんどでした。上級隊員は制服が制定された翌年の1933年のうちに、黒服を手に入れていましたが、下級隊員にはなかなかすべてが手にいきわたっていなかった為、1935年ぐらいまで黒服以前の「伝統の制服」にあたる褐色シャツ制服が、黒服に混在して使用され続けたといいます。

他の制服の導入

1935年にはSS親衛隊の特務部隊用、そして翌年1936年には親衛隊髑髏部隊には野戦服となるアースグレー色・アースブラウン色が導入されました。そのため、SS特務部隊と髑髏部隊は黒服を日常制服として着用しなくなりました。そのため、導入以降には一般SSだけが黒服を着用していましたが、さらに1938年に一般SSに常勤する隊員には、フィールドグレー色をした新しい勤務服が導入されたため、一般SS隊員たちも黒服を日常制服として着用しなくなりました。そのため、新しい制服が導入されてから、黒服は礼服用として使用されるようになりました。

SS特務部隊・SS親衛隊髑髏部隊・SS常勤隊員には黒服以外の新しい制服が支給されましたが、一般SSの予備役的な存在だった非常勤の一般SS親衛隊隊員には、新しく導入されたフィールドグレー勤務服が支給されなかったため、非常勤一般SS隊員は黒服を日常制服として、着用し続けました。戦争がはじまると、非常勤の一般SS親衛隊員も続々と徴兵されていったために、大幅に黒服を着用している人が減りました。そのため余った黒服は、徽章などを外して外国人のSS部隊や、占領地の現地民による補助警察シューマ隊員に黒服が支給されていきました。

戦時中のドイツ国内で、日常制服として黒服を使用していたのは予備役的な存在になっていた約4万人の、一般SS親衛隊の非常勤隊員が中心だったこともあり、黒服を着用していると兵役逃れた人と見なされて、嘲笑の的になってしまったといいます。

夏用は将校クラスだけ

1939年6月27日以降に、黒服とまったく同じデザインで色だけが白の夏用の制服として「白服」が将校にだけ支給されました。いわゆる夏服のような感じです。夏服ならぬ「白服」が着用された期間は4月1日から9月30日まででした。将校に支給された「白服」ですが、アドルフ・ヒトラーの山荘など、ヒトラーの他ヘルマン・ゲーリングや、マルティン・ボルマンの別荘があり、ナチス最高幹部用のリゾート地を兼ねつつ、軍事拠点でもあったベルヒテスガーデンでの式典を除いで、「白服」はほとんど着用されなかったといいます。

私の最良の敵 Mein bester Feind

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