親衛隊が結成させるまで

ブラックコメディが効いてる!『ミケランジェロの暗号』から見るナチス親衛隊と制服

トーテンコップとSSのルーン文字で表記されるSS親衛隊は、1929年にハインリヒ・ヒムラーが親衛隊全国指導者に就任したことで、一気に勢力を広げて強くなりました。親衛隊モットーは「忠節こそ我が名誉」です。SSの短剣やバックルにも刻まれているほど、ナチスが政権を1933年に獲得してから政府の警察組織と親衛隊の一体化が進められました。そして、第三帝国の主要な治安部隊や諜報組織はもとより、強制収容所、保安警察(ゲシュタポ)、秩序警察、親衛隊内部におかれた情報部のSDといった部分は、すべて親衛隊の傘下におかれていました。

1934年には、正規軍でもある国防軍から軍事組織の保有を許可されたことによって、親衛隊特務部隊(後:武装親衛隊)も創設しています。武装親衛隊が創設されて以降、特務部隊以外の親衛隊員は一般親衛隊と呼ばれるようになりました。

ナチス親衛隊の歴史

親衛隊となる前身となる組織として、国家社会主義ドイツ労働者党が1920年に結党してから、政権を1933年に獲得するまでの闘争時代には、反対政党に対する武闘そしきとして突撃隊「褐色シャツ隊」ともいわれたSAという組織がありました。

国家社会主義ドイツ労働者党の党首アドルフ・ヒトラー個人のボディーガード集団として1923年3月に「司令部護衛隊」として創設したのが、最初になります。この組織は「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」に改組して、衝撃隊の隊員は200名ほどでした。ミュンヘン一揆の際には「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」は、警官隊の銃撃で転倒したヒトラーを、その隊の名前どおりに盾となってかばったため、5名の隊員が代わりに警官の銃撃を受けて死亡しています。そしてミュンヘン一揆の失敗で、ナチ党も突撃隊もヒトラー衝撃隊も、強制的に解散させられています。

親衛隊の結成

ヒトラーは1924年12月20日にランツベルク刑務所を出獄しました。そしてバイエルン州首相のハインリヒ・ヘルトと会談して、2度と一揆を起こさないといった約束もして、1925年2月25日にナチ党に対する非常事態宣言の解除することにこぎつけています。これによってヒトラーはナチ党を再建することが可能になったため、1925年2月27日にヒトラーはナチ党の再結党宣言を行いました。

ナチ党組織を再建する途中の1945年4月中旬に、ヒトラーはユリウス・シュレックにヒトラー自身の警護部隊を再建するよう命じました。そして命じてから2週間後の5月に、ヒトラーの警護部隊組織は「親衛隊」:独語 Schutzstaffelとの名前となりました。一番最初に「親衛隊」として発足した当時の親衛隊の隊員数は、わずかに8名でした。

初期の親衛隊には、入隊条件がありました。まず年齢は23歳~35歳まで。そして入隊者には保証人が2人以上。そして5年以上同一の住居に居住している旨を警察に届けてあり、かつ健康で頑強な体を持っていることが入隊条件でした。そして親衛隊の行動指針にはアルコール中毒者、おしゃべり、非行歴がある者は酌量しないと定められていました。

突撃隊はドイツ人であれば、ほとんど誰でも希望すれば入隊することができましたが、親衛隊が設立した当初から親衛隊に入隊するには、一定の入隊条件が存在していたことになります。親衛隊は設立後すぐに、ドレスデンで共産党員50名によるナチ党集会襲撃の企みを未然に防いで親衛隊としての存在とその功績をあげています。

シュレックは親衛隊の拡張に努めます。そして1925年9月に、全ての地方党グループに親衛隊を設置するよう命令を下しました。そして1925年のクリスマスの親衛隊の報告によれば、わずか3ヶ月で親衛隊の隊員数は、1000人になっていたといおいます。翌年1926年の春には「親衛隊司令部」独語:SS-Oberleitung が創設されました。

1926年4月に、ナチ党財務担当ベルヒトルトが亡命先のオーストリアから帰国して、シュレックから親衛隊隊長の職を受け継ぎました。そして同年7月4日のヴァイマルでの第二回党大会でミュンヘン一揆の時にヒトラー衝撃隊が身体を張ってヒトラーを助けたため5名がなくなった時の「血染めの党旗」が、突撃隊から親衛隊の管理に移されることとになりました。

1926年11月1日には、親衛隊は突撃隊の傘下に組み入れらます。それはフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンが突撃隊最高指導者に任じられたからです。そしてベルヒトルトは「親衛隊全国指導者」の肩書を得ることになりました、結局「親衛隊全国指導者」となつたベルヒトルトは、突撃隊最高指導者のファン・ザロモンと軋轢を強めたことで辞職します。親衛隊の全国指導者になったのは、ベルヒトルトの副官エアハルト・ハイデンが1927年3月に就任しました。突撃隊最高指導者フォン・ザロモンは各地区の親衛隊員数を突撃隊員数の10%以下にすることを命じたため、ハイデンは親衛隊の隊員数の削減を迫られました。実際に1928年までに親衛隊の隊員数は280人にまで落ち込んでいます。結局ハイデンもフォン・ザロモンとの軋轢を強めて1929年1月6日に辞職しています。

私の最良の敵 Mein bester Feind

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ナチス親衛隊の制服

親衛隊の装備品

SS親衛隊名誉指輪

親衛隊が結成させるまで

Protection Squadron 親衛隊とは・・。