黒い制服が登場!

ブラックコメディが効いてる!『ミケランジェロの暗号』から見るナチス親衛隊と制服

親衛隊が280人にまで減った親衛隊の隊員数にまで落ちこみましたが、ハインリヒ・ヒムラーの就任で親衛隊は勢力を拡大していきます。ハインリヒ・ヒムラーは1925年8月8日に親衛隊に入隊しています。親衛隊の隊員番号168。そして親衛隊に入隊して2年後の1927年に、第2代親衛隊全国指導者エアハルト・ハイデンの代理に任じられていますが、ハイデンは突撃隊最高指導者フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンと対立を深めたため1929年1月6日に辞職することになり、ハイデンのい後任として同日に第3代親衛隊全国指導者に任命されました。

親衛隊勢力拡大

ハインリヒ・ヒムラーが親衛隊全国指導者に任じられた時点での親衛隊は、280名ほどの弱小組織でしたが、ヒムラーが全国指導者になってから、親衛隊は規模を急速に拡大させていきます。1929年末には1000人、1930年末には2700人、1931年には1万5000人、1932年4月には2万5000人、そして1932年末には5万人以上にも隊員数が劇的に増えています。

隊員が急激に増えた理由

ニューヨーク・ウォール街で、1929年10月24日に株が大暴落したことで発生した世界恐慌が、親衛隊の人数拡大に関係しています。失業者がなだれを打ったように、ナチ党やナチ党組織へ参加を希望しました。そしてもちろん親衛隊にも入隊希望者が殺到しました。当然ながら突撃隊は親衛隊よりも、もっと多くの人数を獲得しています。これによってドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く突撃隊員が増加しました。

突撃隊は、ナチ党の党首ヒトラーの統制させも受け付けなくなるほどに荒れに荒れていたため、ヒトラーはその当時は選挙によって合法的な政権獲得を目指していたこともあって、突撃隊の無法行為はヒトラーにとっては、大きな頭痛の種にいなっていました。ヒトラーは突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感したため、そこで突撃隊の無法分子にあたるための任務を果たす組織としてヒムラーが率いる親衛隊に目を付けました。

突撃隊との分離

突撃隊の最高指導者は、親衛隊の人数が増えることに加えて、親衛隊の拡大に強く反対していました。ところが突撃隊最高指導者フォン・ザロモンが党首ヒトラーと対立したことから、1930年8月12日に辞職することになりました。さらにその月の終わりには、東部ベルリンの突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネスが、党指導部に対して反乱を起こしました。。

このような突撃隊の情勢もあったことから、党首のヒトラーは1930年11月7日付けの命令で、正式に親衛隊を党内警察組織と規定します。そして親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないことを定めました。

エリート集団を作る

ヒムラーはリヒャルト・ヴァルター・ダレという政治家のイデオロギーに強く影響を受けていたこともあって、1929年4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出します。その草案には、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようにすることでした。突撃隊の方が隊員数で圧倒的に勝る数だったこともあり、その突撃隊を抑え込むためには親衛隊を「エリート集団」にする必要があったからです。そしてヒムラーやダレのいう「エリート」とはどんな人かといえば、金髪で青い目をしている長身の北欧人種のことが彼らの言う「エリート」でした。

ヒムラーは農業を学んでいて、なおかつ農薬会社に勤めていたこともあるため、「親衛隊」の入隊基準について植物と絡めて語っています。「品種改良をやる栽培家と同じことだ。立派な品種も雑草と交じると質が落ちてしまう。それを元に戻して繁殖させるのだが、我々はまず植物を選別する原則に立つ、そして我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。私の身長5フィート8インチ(約173センチ)という条件でまず始めた。特定の身長以上であれば、私の望む血統を有しているはずだからだ。」

身長5フィート8インチという条件を満たす人材の供給は、世界恐慌の影響で多くの失業者も出ていたことと、突撃隊からの引き抜きなどで人材は豊富でもありました。ただし親衛隊に採用されるのは、ヒムラーの「品種基準」を満たした者だけでした。

おまけにヒムラーは、1931年12月31日の命令で親衛隊員の婚姻条例を定めています。人種・遺伝の観点から、隊員の婚姻に問題がないかどうか調査するための機関として親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)を創設します。そして創設した長官には、リヒャルト・ヴァルター・ダレに長官に就任してもらいました。そしてヒムラーはユダヤ人からドイツを守る世界観闘争を担うのは、親衛隊だという自負心を強めていくようになりました。

「忠誠こそ我が名誉」

1930年7月に後に秩序警察の初代長官となるクルト・ダリューゲが親衛隊に参加しました。ダリューゲは親衛隊に入る前から、ベルリン親衛隊をヒムラーから独立して指揮することをヒトラーから認められていた人物だったこともあり、親衛隊に移籍後にもベルリン親衛隊はヒムラーから事実上独立して指揮していました。ダリューゲは1931年3月に起きた突撃隊員ヴァルター・シュテンネスの再反乱の鎮圧の際にも活躍しています。そしてダリューゲが突撃隊員の反乱を鎮圧した一件は、親衛隊の地位を大いに高めることになりました。

この時にヒトラーはダリューゲに対して「SS隊員よ、忠誠は汝の名誉」という賛辞を贈っています。そしてこのときの賛美の言葉が後に【忠誠こそ我が名誉】 という親衛隊のモットーの原型になりました。

突撃隊員の起こしたシュテンネスの反乱には、プロイセン州内相カール・ゼーフェリンクの政治警察が援助していたといわれています。このことから、ヒトラーは党内の情報組織の必要性を痛感したため、ヒムラーに親衛隊情報部の創設を指示しました。

諜報部(SD)の設立

そして1931年6月に、海軍で将来を嘱望されていたにもかかわらず海軍中佐待遇の軍属の娘さんとの交際のもつれから、軍法会議にかけられて海軍を不名誉除隊となっていて失業中だった「金髪の野獣」といわれたラインハルト・ハイドリヒが親衛隊に参加しました。ヒムラーはこのハイドリヒに親衛隊の諜報部「IC課」を任せています。1932年7月にこの組織はSDに改組されました。SDは後に全ヨーロッパに監視の目を張り巡らせる巨大諜報機関に成長しますが、設立した当初はハイドリヒの妻のリナが秘書を務めていて、ハイドリヒの部下はわずか3人だけという状態でした。

少ない人数でありながらも、ハイドリヒは精力的に働いたことで、ハイドリヒの索引カードには党内外の政敵の色々な情報が記載されていきました。やがてハイドリヒの組織は急速に拡大していき、ナチ党の各支部にハイドリヒの地方機関が設けられるようになっていきました。突撃隊諜報部など他の党の諜報組織を出し抜いて、ナチ党が政権を掌握した後の1934年6月9日に副総統ルドルフ・ヘスの声明によって親衛隊の諜報部のSDだけが、党唯一の諜報組織と定められました。

黒服の登場

1932年1月25日に、ミュンヘンの党本部「褐色館」の警備の全権が親衛隊全国指導者ヒムラーに任せられました。1932年7月7日に、これまでの突撃隊と同型の制服を改めて親衛隊独自の制服が制定されました。それが親衛隊の制服として有名な「黒服」です。「黒服」が制定された背景には、突撃隊からの独自路線を強く示すためにも独自の制服の「黒服」が制定されました。ヒムラーが親衛隊の模範としたのは、カトリック教会のイエズス会を意識していました。そのため、親衛隊が急速な勢力拡大したことと、黒い制服から親衛隊のことを「黒いイエズス会」とも呼ばれました。

私の最良の敵 Mein bester Feind

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ナチス親衛隊の制服

親衛隊の装備品

SS親衛隊名誉指輪

親衛隊が結成させるまで

Protection Squadron 親衛隊とは・・。