武装SSの野戦服

ブラックコメディが効いてる!『ミケランジェロの暗号』から見るナチス親衛隊と制服

ナチスの親衛隊のSSの制服には2種類あります。「勤務服」「野戦服」です。その中でもSS特務隊の「武装SS」隊員には、「勤務服」と「野戦服」の両方が支給されていました。「野戦服」が支給されるのは、SSの特務部隊にだけということもあり特別な制服でもありました。勤務服は一般SSとと同じ制服になっています。SS髑髏部隊もSS特務部隊も、最初のうちは一般SSと同じ制服の黒服を着用していましたが、あまりも派手ということもあったため、戦場の場で行動作戦を取るときであったり、強制収容所での警備に当たる際にも不向きとうこともあって、「野戦服」が作られるようになりました。

武装SSは先駆け

何が先駆けかというと、武装SSつまりSS特務部隊は世界で初となる迷彩服を正式に採用してそれを大量に支給したことです。迷彩服のさきがけは武装SSです。今でこそ自衛隊はもとろより、アメリカ軍やロシア軍NATO軍といった世界中の軍隊ではごく当たり前のように使われている迷彩服ですが、当時の技術(繊維・染織)で迷彩服というとても複雑なプリント生地で大量に製造するというのは、今までまったくなかったまさに迷彩服の先駆者です。

カモフラージュ柄

1935年からSS特務部隊用の迷彩服の研究が始められていました。最初は、まず迷彩ヘルメットカバーそして迷彩ポンチョそして顔面の偽装具といった「迷彩」するための装備から開発されました。そしてそれが1936年の末には、SS特務部隊のひとつドイッチュラント連隊の演習に実験的に使用された結果で、兵の消耗を迷彩装備を使用した場合に15%も抑えることができるという実験結果の結論が出されたことにで、迷彩服を採用することが決定されました。

迷彩ポンチョそのものは、すでに陸軍でも開発されていましたが、SS特務部隊では「迷彩」だけを目的にした迷彩スモックの開発がすすめられていき、1937年末になんと世界初となる規格型迷彩スモックを誕生させています。この迷彩スモックは、通常の野戦服の上にかぶって着用します。そして胸元には切れ込みが入っているため、胸元の紐で留めていました。

迷彩ポンチョは最初は手作業で、作られていました。そのためたくさん生産することはできなかったため、迷彩ポンチョの数はごく限定的だったため、ポーランド戦争の頃には一般的ではありませんでした。ところが、1940年6月頃には機械化で生産することができるよになっていたため、1941年の独ソ戦の頃から、ほぼすべての武装SS部隊に迷彩スモックが行き届いていたといいます。

最初は迷彩ポンチョに始まり、迷彩スモックと続いて、さらに1944年3月には迷彩スモックに代わって迷彩柄の上着とズボンが揃ったセットアップの迷彩服が登場しました。迷彩柄のズボンや迷彩柄の上着と、それぞれ単体で着用してもよかったようですが、おなじく今までのスモックと同じ様に、通常の野戦服の上から着用してもかまわなかったようです。

熱帯用の制服

武装SSは北アフリカ戦線には従軍していませんが、南ヨーロッパのバルカン半島の戦いには従軍しています。そして気温の高いギリシャでの戦闘では、武装SS将兵たちは陸軍のコットン製の熱帯用野戦服を独自に調達して使用しました。熱帯に即した通気性の良いコットン素材を着用したことがきっかけとなって、武装SS独自の熱帯服の開発がすすめられるようになりました。

熱帯野戦用の服が武装SSにに支給されるようになったのは1942年からのことです。武装SSの熱帯野戦服は、参考にしたモデルはドイツ軍ではありませんん。イタリア軍の熱帯野戦服「サファリアーナ」をモデルにして作られました。肩から胸を大きなフラップが覆っていて、胸ポケットのボタンで留める仕様になっています。このフラップは、熱を放つという放熱効果があるために、フラップが付けられていたそうです。熱帯用の制服素材は陸軍熱帯服と同じくコットン製です。前ボタンは4個になっていて開襟して着用します。このボタンですが、洗濯するのに便利なような着脱式になっています。

1943年にはポケットのプリーツを省略したM43熱帯服が製作されるようになりました。このような熱帯野戦用の制服が登場したことから、各種熱帯帽や熱帯シャツ、熱帯ズボンや半ズボンなどといったものも導入されるようになりました。

初期に支給されたアースグレー野戦服

SS特務部隊の草創期にはアースグレーの野戦服が支給されました。支給されたアースグレー野戦服は、最初は部隊ごとに様々なバリエーションの野戦服がありました。そして1935年初めに「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」と、特務部隊用に統一されたアースグレー色の野戦服がSS特務部隊に支給されるようになりました。このアースグレー色の野戦服を「M35野戦服」と呼んでいます。1935年11月に出されたSS指令で、M35野戦服は正式に認可されました。

基本的に黒服とアースグレー野戦服の形状は同じでしたが、前ボタンが黒服より1つ多く5つになっています。そしたラペルを閉じて着ることができました。ただし、将校の野戦服になると、前ボタンの数は黒服と同じく4つで、開襟でのみの着用になっています。

1936年3月には、髑髏部隊にもアースブラウン色で同じ型の野戦服が、日常勤務用として支給されています。ちなみに髑髏部隊以外の強制収容所所員の場合は、通常の勤務服を着用していました。陸軍のM36野戦服の影響もあるかと思われますが、1936年になると部隊によって、襟をダークグリーンにしているタイプも見られるようになっています。

フィールドグレー色の野戦服

1937年にSS特務部隊と髑髏部隊の、ふたつの野戦服が統一されてフィールドグレーの野戦服が制定されました。支給されたのはSS特務部隊と髑髏部隊に支給されたました。この制服はM37野戦服と呼ばれています。ドイツ陸軍のM36野戦服をモデルにして作られましたが、襟が制服と同じフィールドグレーという点(陸軍:襟の部分がダークグリーン、服と色が違う)や、下ポケットが切り込み式で斜めについている点(陸軍:上下ポケットともに貼り付け式で水平)などが、陸軍M36野戦服とは違っています。詰襟でも開襟でも着る事ができました。ただ1940年ぐらいまでは、アースグレーの野戦服を着用している部隊もあったそうです。

戦争が開始されて、武装SS隊員数が急増した1939年末には、武装SSは陸軍が着用しているM36野戦服の大量採用することを余儀なくされています。M36野戦服にSSの徽章をつけた野戦服が1940年から支給されるようになります。この野戦服をM40野戦服と呼ばれています。はっきりえば、陸軍M36野戦服の使いまわしになっているため、陸軍の襟のままでダークグリーンになっている物もありますが、陸軍野戦服も1940年以降に生産された物は襟がフィールドグレーになっています。SS被服工場でも、M40野戦服に準じた野戦服が製造されていたため、武装SS用として襟をフィールドグレーにして製作していました。

もともとSS被服工場は、ダッハウ強制収容所にしかありませんでしたが、1939年にラーフェンスブリュック強制収容所にも置かれるようになったため、第二次世界大戦のときに収めた勝利によって占領地にもSS被服工場が続々と置かれるようになりました。そして1941年にはSS被服生産体制が整ったため、陸軍に頼ることなくSS独自で野戦服を支給できるようになりました。1941年からSS被服工場で作られるようになったM41野戦服の外見は、陸軍野戦服のM40野戦服と変わらないスタイルでしえたが、裏の仕様がだいぶ変わっていました。さらに1942年になると、ポケットのプリーツをなくしたM42野戦服が支給されるようになりました。さらには、1943年にはポケットの口の形が単純化されてまっすぐにされたM43野戦服が支給されるようになりました。素材もウールの使用量が大幅に減らされているため、保温機能がかなり低下しています。

1944年には更に生産工程の簡素化されたために、野戦服がSS武装も陸軍も関係なく全軍共通となったため、記章だけが違う「M44野戦服」が生まれました。このM44野戦服は極端に丈が短くなっていて、下ポケットが消滅しています。そのため、見た目はイギリス軍の野戦服「バトルドレス」のようになってしまっています。このM44野戦服の素材は、さらに粗悪品になっているためかなり消耗が激しかったといいます。

私の最良の敵 Mein bester Feind

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